虹釜さんの佐々木敦批判批評

には、単に「佐々木敦」という個人を巡る物語以上の、様々な物語が内包されているわけで。

http://d.hatena.ne.jp/toxicdragon/20090512

佐々木敦という批評家問題」の話を軸に、「音楽批評問題」「アーティスト/音楽家の自意識問題」「情報デザイン問題」「ライターの質問題」「音響派問題」などを、バッタバッタと切っていく内容に、痛快と耳の痛みを同時に感じたんですが、それぐらい虹釜さんの問題意識が拡大しているんだと思うし、もっと言うと当事者感覚が希薄になって、第三者のシビアな目線を送れるようになったんだと思う。Weekly虹釜終了問題と、根は一緒なんだろうなあと思う(虹釜さんがWeekly虹釜を続けられない音楽業界なんて、何の価値も無いよなあ。長い時間をかけて、音楽業界から豊かな余白が零れ落ち、代わりに虚無を抱えこんだんだと思う)。

僕はどうしようもない音楽を作ってるし、一丁前に音盤批評の真似事もしたりするし、何より職業デザイナーなので、要所要所で当事者意識を求められて心地よかったり居心地悪かったり。でも、音楽に関しては、本当に虹釜さんの仰る通りだと思う。今度時間を割いて書きたい「生煮え音楽問題」とか「天才と凡人問題」にも通じるところなんだけれども、「一握りの天才」以外の人が作った「市井の音楽」の効能を信じて、凡人であるところの僕が音楽を続けるのは、虹釜さんのような人がいたからであるし、そもそも僕は「クロスビート」で佐々木さんと湯浅(学)さんがぶち上げた「ローファイ特集」に人生も価値観もねじ曲げられて今があるわけだから、全くもってここに書かれているアーティスト問題とは無縁ではないのだし、それが当然の姿勢でもあったので、どこから「神格化」の歴史に戻ってしまったのか分からない。現実*1と理想の乖離は深刻な程進んでいるのかもしれない。アーティスト然としていない人たちの音楽は、再び無視され、歴史の芥となる時代は来るのかなあ。こうした絶望が一つ一つ積み重ねられる事で、それは現実になってしまうかもしれないよ。

ちょっと色々思うところがありすぎて、ことあるごとに思い返すんだろうなー。とりとめもないけど終わり。虹釜さんの言葉を看過してはいけないし、この人*2にこんな事を書かせてしまう現状には徒労感を感じるのも事実だが、だからこそ、だからこそやるんだよ、の精神は忘れてはならんのだと思いますよ。

(あと、「レーベルやっている人よりもそのレーベル音源をがちで聴きこんだり」している好例が、ここだと思う。懐かし補正もあるのかもしれないけど、ここまで聞き込んでいる人が周りに沢山いたから、俺はライターになろうなんて気を無くしたんだった。)

*1:今のアーティストって、市井の感覚と地続きに音楽を体現しているような幸せな人が多いと思うけど、あまりそのことが表立って取り上げられる事は無い。物語に乏しいから

*2:東京の音楽シーンにおける最重要人物の一人であることは間違いない。それも大分長いこと。当人の卑下は相手にしてはいかん