秋葉原通り魔と報道

ripping yardにも書きましたが、僕なんかはこれ、憤りと恐怖でエントリをせっつかれているような気分がする。ちょっと土地勘が西の人だったら…っていう感覚は、至極当然のものだと思う。俺は東の人間だから、もっと怖いっす。ニュース見ながら、死を間近に感じた。

やっぱり今回の件で、「報道」というものに関して、我々はもっともっと議論を尽くす必要があると感じたよ。例えば、僕が今こうやって文章をしたためる行為すら、「不謹慎」の言霊を乗り越えて行くちょっとした気概が必要な、冒涜的な行為だと思う(無自覚ならば、それはそれでいいんだけどさあ)。故に、報道とは常に不道徳だとも言える。死人を使って儲ける、死人を使って注目を浴びる、死人を使って楽しんでいる…その手の誹りは免れない。

では、その誹りに対して我々は「当たり前じゃねえか」と、「報道の本質」を援用して開き直るのと、視聴率目当ての報道記者がふんぞり返るのには違いがあるのか。それは後ろにあるものの大きさだけで、それでは単なる階級闘争になってしまう。それは本質的じゃないよなあ、って思います。

我々は、根本的に、(すごく漠然とした言い方をしますが)「センセーショナルな出来事を放送して、注目を浴びる快感」を否定出来ないし、そういう状態にある人を軽々しく非難出来ないなあと思います。先のripping yardのエントリでも、ustreamで現場を中継した人達を非難しているんじゃないんですよね。そうではなくて、もしそれを非難出来ない…という視座に立った時に、ではマス「ゴミ」の行為も非難出来ないのではないか、と思ってしまうんですよ。

まあ、報道のなんたるかを、もう少し学ぶ必要があるかもなあー。と、推敲もろくにせずに唐突に締める。